仮面の世界
1971年3月30日、アメリカ合衆国のシアトルでは、コーヒー・茶・スパイス販売店「スターバックス」(Starbucks)が開業した。その頃、東京都町田市の鶴川街道では、テレビドラマ「仮面ライダー」の撮影中、オートバイで走行していた藤岡弘(本郷猛:役)が事故を起こして左大腿部複雑骨折の重傷を負った。1971年4月3日、「仮面ライダー」(毎日放送・東映:製作)の放送が開始された。それから約52年を経て、映画『シン・仮面ライダー』(2023)が公開された…
仮面ライダー本郷猛/一文字隼人は改造人間である。 彼を改造したショッカーは世界制覇を企む悪の秘密結社である。 仮面ライダーは人間の自由の為にショッカーと戦うのだ!
『シン・仮面ライダー』 観賞後記
変わるモノ。または、孤高。

《戦意高揚映画をルーツにもつ『ウルトラマン』は、宿命的に政治性を強く孕みビッグ・ブラザー=近代的な表象として成立していたと言える。対して、時代劇──それも浅草東映のチャンバラ映画をルーツにもつ『仮面ライダー』は同様に宿命的に非政治的かつ非物語的な存在であり結果的に(プレ・モダン的であるがゆえに)リトル・ピープル=ポストモダン的な表象として機能したと言えるだろう。(略) 円谷英二を心の師として仰いでいたという平山〔亨〕によって、敬意をもって明確に『帰ってきたウルトラマン』の対抗番組として企画された『仮面ライダー』は、まず制作レベルにおいて比較的低予算でアクションシーンを撮影できる等身大ヒーローという表現を、浅草東映的な時代劇のノウハウを投入することで実現した。この制作上のルーツ的な非政治性は等身大ヒーローという物語上のコンセプトにも影響を与え、仮面ライダーというリトル・ピープル的なヒーローを成立させたのだ。仮面ライダーがリトル・ピープル/ポストモダン的ヒーローでありながら、「絶対悪」=ショッカーと戦うことができたのは、「人間」でありながら悩むことが要らなかったのは、この非政治性がもたらす物語性の希薄さゆえのものだ。(略) そしてウルトラマンから仮面ライダーへの「主役交替」は奇しくも、いや必然的にビッグ・ブラザーの時代の終わりとリトル・ピープルの時代のはじまり、つまり「政治の季節」の終わりと「消費社会」の到来と呼吸を同じくしていた。》 (宇野常寛 『リトル・ピープルの時代』 幻冬舎:刊 2011/〔〕内は帰山人による)
変わらないモノ。または、信頼。

《テレビの外を見て下さい。世の中の出来事に目を向けて見て下さい。例えば──戦争があります。罪もない人人がたくさん死んでいます。その戦争をするための道具・兵器をつくって大もうけをしている会社があります。そしてまた、そういう会社から知らん顔をしてお金をもらい、悪いことばかりをしている政治家がいます……。 どうですか、現実にはテレビの中の怪人たちより、よほど恐ろしい、悪い連中がいるのです。 仮面ライダーは、テレビの中で、物語の中の“悪”と戦って、現実の皆さんに見ていただいているのですが、その戦う姿の中にある勇気や強さを、みなさんは現実の“悪”に向けてほしい、と考えているのです。大人になったら、そんな悪と堂々と戦える正義感や勇気を身につけてほしい。そう祈ってつくっているわけです。》 (石森章太郎 「原作者からのメッセージ」/『Super Visual 4 Town Mook 増刊 仮面ライダー』 徳間書店:刊 1981)
そして、変えたくないモノ。または、継承。

《悪くすれば『キューティーハニー』になってしまうわけですよね。あの失敗したから今回そんなことはないと思うんですけれども、めちゃくちゃ出来のいいファンムービーになってしまうかもわかんないですけど…》 (岡田斗司夫 「岡田斗司夫ゼミ」#413 2021.10.03)
映画『シン・仮面ライダー』は、庵野秀明が同じく監督・脚本を担った映画『CUTIE HONEY キューティーハニー』(2004)になってしまったのか? 観てみると、序盤はぎりぎり『キューティーハニー』ではなかったが、中盤はちょっと『キューティーハニー』となって、終盤はかなり『キューティーハニー』であった。
視点と言葉を変えれば、序盤は三栄土木のダンプトラックでぎりぎり《リトル・ピープル=ポストモダン的な》「仮面ライダー」だったが、中盤はサソリオーグ役の長澤まさみでちょっと『シン・ウルトラマン』(2022)となって、終盤はプラーナとハビタット世界でかなり『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021)であった。
映画『シン・仮面ライダー』は、「シンの呪縛」に囚(とら)われた庵野秀明による《めちゃくちゃ出来のいいファンムービー》である。その仮面の世界には、孤高も信頼も継承も何もない。
仮面ライダー本郷猛/一文字隼人は改造人間である。 彼を改造したショッカーは世界制覇を企む悪の秘密結社である。 仮面ライダーは人間の自由の為にショッカーと戦うのだ!
『シン・仮面ライダー』 観賞後記
変わるモノ。または、孤高。

《戦意高揚映画をルーツにもつ『ウルトラマン』は、宿命的に政治性を強く孕みビッグ・ブラザー=近代的な表象として成立していたと言える。対して、時代劇──それも浅草東映のチャンバラ映画をルーツにもつ『仮面ライダー』は同様に宿命的に非政治的かつ非物語的な存在であり結果的に(プレ・モダン的であるがゆえに)リトル・ピープル=ポストモダン的な表象として機能したと言えるだろう。(略) 円谷英二を心の師として仰いでいたという平山〔亨〕によって、敬意をもって明確に『帰ってきたウルトラマン』の対抗番組として企画された『仮面ライダー』は、まず制作レベルにおいて比較的低予算でアクションシーンを撮影できる等身大ヒーローという表現を、浅草東映的な時代劇のノウハウを投入することで実現した。この制作上のルーツ的な非政治性は等身大ヒーローという物語上のコンセプトにも影響を与え、仮面ライダーというリトル・ピープル的なヒーローを成立させたのだ。仮面ライダーがリトル・ピープル/ポストモダン的ヒーローでありながら、「絶対悪」=ショッカーと戦うことができたのは、「人間」でありながら悩むことが要らなかったのは、この非政治性がもたらす物語性の希薄さゆえのものだ。(略) そしてウルトラマンから仮面ライダーへの「主役交替」は奇しくも、いや必然的にビッグ・ブラザーの時代の終わりとリトル・ピープルの時代のはじまり、つまり「政治の季節」の終わりと「消費社会」の到来と呼吸を同じくしていた。》 (宇野常寛 『リトル・ピープルの時代』 幻冬舎:刊 2011/〔〕内は帰山人による)
変わらないモノ。または、信頼。

《テレビの外を見て下さい。世の中の出来事に目を向けて見て下さい。例えば──戦争があります。罪もない人人がたくさん死んでいます。その戦争をするための道具・兵器をつくって大もうけをしている会社があります。そしてまた、そういう会社から知らん顔をしてお金をもらい、悪いことばかりをしている政治家がいます……。 どうですか、現実にはテレビの中の怪人たちより、よほど恐ろしい、悪い連中がいるのです。 仮面ライダーは、テレビの中で、物語の中の“悪”と戦って、現実の皆さんに見ていただいているのですが、その戦う姿の中にある勇気や強さを、みなさんは現実の“悪”に向けてほしい、と考えているのです。大人になったら、そんな悪と堂々と戦える正義感や勇気を身につけてほしい。そう祈ってつくっているわけです。》 (石森章太郎 「原作者からのメッセージ」/『Super Visual 4 Town Mook 増刊 仮面ライダー』 徳間書店:刊 1981)
そして、変えたくないモノ。または、継承。

《悪くすれば『キューティーハニー』になってしまうわけですよね。あの失敗したから今回そんなことはないと思うんですけれども、めちゃくちゃ出来のいいファンムービーになってしまうかもわかんないですけど…》 (岡田斗司夫 「岡田斗司夫ゼミ」#413 2021.10.03)
映画『シン・仮面ライダー』は、庵野秀明が同じく監督・脚本を担った映画『CUTIE HONEY キューティーハニー』(2004)になってしまったのか? 観てみると、序盤はぎりぎり『キューティーハニー』ではなかったが、中盤はちょっと『キューティーハニー』となって、終盤はかなり『キューティーハニー』であった。
視点と言葉を変えれば、序盤は三栄土木のダンプトラックでぎりぎり《リトル・ピープル=ポストモダン的な》「仮面ライダー」だったが、中盤はサソリオーグ役の長澤まさみでちょっと『シン・ウルトラマン』(2022)となって、終盤はプラーナとハビタット世界でかなり『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021)であった。
映画『シン・仮面ライダー』は、「シンの呪縛」に囚(とら)われた庵野秀明による《めちゃくちゃ出来のいいファンムービー》である。その仮面の世界には、孤高も信頼も継承も何もない。